6. Brandenburg (2004.5記、2006.5一部訂正、2006.10大幅修正)    


グリーンで示されている箇所にはそれぞれ写真が添えてあるか、リンクを張ってあります。その部分をクリックすれば、それらが取り出されます。

   Brandenburgには、これまでに3度行ったことがあり、2002年に最初に行ったときには、路面電車の軌道まで掘り返して大々的な改修工事をしていたため、これはかなり素晴らしい町に生まれ変わると勝手に予想していたのだが、2年後に行ってみると、復興はある程度進んではいたが、他方で、過疎化がかなり進んでいる町であるという印象を強く受けた(事実、統一前の人口は95,000だったが、現在は75,000)。4年後の今回、町の復興はかなり進み、活気も前回よりは出てきたように見えた。
   Brandenburgは、スラブ民族の小部族である Heveller (これはドイツ名で Havelland 人という意味であり、スラブ名は Liutizen)の支配者の重要な城塞のあったところで、928年から29年にかけての冬に Heinrich I 世によって一度平定され、948年には Otto 大帝がここに司教座の1つを置くが、その後の民族蜂起以後150年以上にわたって Heveller はドイツ人の支配を免れ、1157年になってようやく Brandenburg 辺境伯に支配権を譲ることになる。但しこれは武力によるものではなく、Haveller の最後の支配者 Pribislaw に子供がなく、またキリスト教にすでに改宗していたこともあって、当時の辺境伯 Albrecht der Bär をその相続者としたためである。
   それ以後、ここには2つの城塞と居住地が存在し(それぞれ独立しており、現在 Altstadt および Neustadt と名づけられている)、 Havel 川という水路と陸路を交易のための船舶や馬車が行き交い、14、15世紀にはハンザ都市の中でもかなり裕福な町になっていたと言われている。ただ、Brandenburg が Hohenzollern 家の支配下に入った後の1486年に Brandenburg 選帝侯国の首都が Berlin-Cölln(当時まだ完全には1つの都市ではなかった)に移ったため、Brandenburg の政治的な重要性は徐々に下がってゆき、さらに30年戦争の時代には、飢餓やペストのために人口の大部分が失われた。
   19世紀になると繊維産業に始まり、玩具、造船、鉄鋼、自動車、そして1933年以降は軍需産業の中心地の1つとなって経済的に再び発展してゆくが、ただまさにそのために、第2次世界大戦の末期には激しい空爆や、ロシア軍との間の市街戦のため、町の5分の1が廃墟になったと言われている。次の DDR 時代のことはよくわからないが、すでに触れたように、現在この町でも旧東独の多くの町と同様に過疎化が進んでおり、失業率は1997年以来20%を超え続け、しかもずっと横ばい状態である。連邦共和国全体の平均が2001年に9.4%であり、また旧東独の各州全体の平均が17.3%であるから、かなり落ち込んでいる町であると言わねばならない。
   筆者が2度目に行ったのは土曜日の昼前であったが、その時間でもかなり閑散としており、午後になるとほとんど人気がなくなり、Neustadt から Altstadt に向かって歩きながら、レストランを探したが、数はまばらで、しかもほぼすべてがすでに閉まっている状態であった。ついでながら、Altstadt にある旧市役所の広場にある中規模のホテルでようやく食事にありついたが、ここはBerlinに本部がある Sorat Hotels というホテル・チェーンの1つである。このように新しく建てたか、買い取って修復した西の資本によるホテルは、東の町の至るところにあって、こうしたホテルは食事もかなり上等である場合が多く、このホテルも例外ではない。
   Brandenburg の文化的な遺産の中心の位置を占めるのは、何と言っても Dom St. Peter und Paul である。この Dom は Dominsel という〈川中島〉の上に立っているが、実は Brandenburg の町を貫いて流れている Havel 川は、この町の周辺で Potsdam の場合のようにいくつか分流を作り出したり、湖になったりしており、この〈川中島〉はそうした分流に囲まれている場所であると言った方がよいかも知れない。Dom のあるところが〈島〉であるならば、Neustadt も島の上に存在するということになりかねない。
   Dominsel はかつてスラブ人とドイツ人の支配者が城塞としていた場所であるが、すでに触れたように Brandenburg に司教座が置かれて以来、この島の所有権は両者に、つまり辺境伯と司教に属することになる。現在の Dom の基礎は1165年に始まった建築工事によるものだが、最近の考古学的な発掘によって、この下にはスラブ人の Siedlung が存在したことがわかっている。10世紀に司教座が置かれた際にすでに聖堂が存在したはずだが、これは石造りというよりも木造に近かったこともわかっている。
   全長が60m近くあるかなり大きな建物であるが、焼き煉瓦造りであるため、他の町の Dom から受ける印象とはかなり異なる。そもそも Fassade にあるはずの塔は北側の1本しかなく、南側のものはかなり初期の頃に建築を継続するのを放棄したらしく、中央の部分より高さが低くなっている。北側の塔の上部には何もなかったらしく、この辺りの建造物の改築にしばしば手を出している例の Schinkel が、19世紀の初めに尖塔を載せている。建物の全体的な構造は Magdeburg の Dom に似ているが、これは最初の改築の際の Magdeburg からやって来た司教の影響であると言われている。
   一方、内部にはいくつか注目すべき部分がある。まず入り口から Chor の方を見て驚くのは、Chor の床が中二階のように高くなっており、その下に Krypta が見えていることである。近づいてみると、Chor に上る階段が横にあり、Krypta の方には Vierung から左右の入り口を通って下に降りる形になっている。したがって Krypta に通じるこの左右の入り口のある壁は、一見すると聖障(Lettner)のように見える。もっとも、この形は初期の頃のもので、19世紀にはここに Vierung から Chor に上がる広い階段が作られており、20世紀になって再びもとの形に直したそうである。
   Krypta の北側には Bunte Kapelle と名づけられている祈祷室があり、その壁面には13世紀から15世紀にかけてさまざまな模様が描かれ、これは1970年代に補修されたため、今でも模様をかなりはっきりと見ることができる。bunt という修飾語が付けられているのは、この模様のためである。 Kapelle のさらに北側には現在 Dommuseum になっているかなり大きな部屋があるが、これはどうやら Dom 全体の北側に接続して建てられている Kloster の一部になっているらしい。もちろんこの Kloster は宗教改革以後は閉鎖され、18世紀の初めから1937年まで、かつて辺境伯領の貴族の子弟を教育するための学校であったRitter-Akademie として使用されていたそうである。かなり大きな Rundgang も残っているが、少なくとも2回目に行った際に見たかぎりでは、子供の遊び場のようになっており、かなり荒れ果てたままであった。
   Dom の話ばかりしているわけにはゆかないので、次に移るが、もう1つだけ興味深いことを付け加えておきたい。Dommuseum の中にはもちろん Dom の宝物や書類などが陳列されているが、2003年の9月に訪れた際には Premontre 会(ドイツ名は Prämonstratenser)の歴史と Brandenburg の関わりをめぐる展示会が行われていた。Premontre 会は通常の修道会ではなく、各地の司教座の聖堂参事会が〈アウグスティヌス会則〉に従って修道士と同様の厳格な共同生活を送っていた、いわば教区聖職者のグループであるが、彼らの一部が1138年から1150年の間に、上記の Heveller の支配者 Pribislaw の招きで Magdeburg の南東にある町 Leitzkau からやって来て、Altstadt に教会を建て(後に触れる Pfarrkirche St. Gotthard)、1161年以降、Dom の参事会のメンバーになったというのである。
   さて、Dom を出て西側に向かうと橋があり(袂には昔の城門の塔 Mühlentorturm がある。煉瓦造りの城門も部分的に残っている)、その先が Neustadt になっている。2度目に行ったときには、ここまでの道路や住居はかなり荒れたままになっていたばかりか、Neutstadt の中心であった Marktplatz は瓦礫を取り除いたままの、何もない広場になっていた。しかし今回行ってみると、この広場は立派に整備され、一応町の中心の広場としての面目を保っていた。こうした廃墟のような建物や地区はこの町のそこここに残っていたが、Marktplatz から少し南に行ったところにある St. Pauli というドミニコ会の立派な Kloster (写真上) なども、2年前には爆撃によって破壊された後に完全な廃墟のまま放置されていたのに対して、今回はまだ未完成ではあるが、屋根を載せて建物としては立派にその偉容を示し始めていた。北側から Dominsel に渡る橋の手前にも、かなり大きな工場の荒れ果てた姿が放置されていたが、今回確かめる余裕がなかったものの、おそらく取り壊しだけは進んでいるのであろう。工場の方はおそらく VEG で、統一後に閉鎖されてそのままになっていたのであろうが、Kloster の方は DDR 時代にもずっと廃墟のまま放置されていたかと思うと、ひどく悲しい感じがしたものである。何とか面目を保っていたのは、Marktplatz の先から Altstadt に通じている Hauptstraße という通りだが、現在では Marktplatz のところで交差している Steinstraße (写真下)が繁華街になっている。
   但し、この通りは道路としてはかなり異様で、中央に路面電車が走っているばかりか、そのかなりな部分が駐車スペースになっている。一方、Hauptstraße を先に進んで Havel 川を渡ったところが Altstadt だが、すでに述べたように、ここには大した商店もなく、特に土曜の午後はほとんど静まりかえっている。先に触れたホテルのある Altstadt の Marktplatz は完全に修復されているが、ここも閑散としており、そこに立っている Rathaus も現在は工事中で中に入ることができない。この Rathaus の Fassade は煉瓦造りのなかなか瀟洒で凝った作りのもので、五層の塔が1本聳え立っている。面白いのは、この建物の前に砂岩で作られたかなり大きな Roland の像が建っているが、これは本来 Neustadt の Rathaus の前にあったもので、建物が爆撃で破壊されたために、1946年以降ここに移されたそうである。
   最後に、すでに触れた St. Gotthardt という Brandenburg の最古の教会についてもう少し記しておきたい。この教会を建てたのが Pribislaw であることは間違いないが、いつ建てられたかは定かではない。Dominsel の領有、つまり Albrecht による相続の実行をめぐって、かなり長い間争いがあったらしく、しばらくこの教会に司教座が置かれていたが、当時の建築様式は当然のことながらロマネスクであり(西側部分にそれが残っている)、現在の焼き煉瓦によるゴシック様式のもの、特に Schiff と Chor が建設されたのは、15世紀の中葉以降である。正面の塔は2本付ける計画が1本、しかも Portal の上、つまり中央に建てられることになり、さらにこれには爆撃による破壊の後に、焼き煉瓦造りの本体には全く似つかわしくないものが載せられ、現在に至っている。ただ、内部は梁が赤とグレーの煉瓦を渦巻き状にあしらった円柱によって支えられており、この柱は非常に美しい。その1本に説教壇が取り付けられているが、それを飾っているレリーフも凝った作りで美しい。さらに注目すべきは、他の柱や壁や、Seitenschiff にいくつもある Kapelle に掛けられている一連の Epitaph である。これらの Epitaph はさまざまな時代に掛けられたものだが、それぞれがこれもかなり凝った作りのもので、形式もさまざまである。
   この教会には、他にもさまざまな彫刻や13世紀に作られたブロンズ製の洗礼盤など、数多くの注目すべき文化遺産が残されており、Dom と並ぶ Brandenburg の文化遺産の中心的な存在であると言ってよいであろう。
   すでに触れたように、Brandenburg は水の都でもある。市当局もこの点を中心に観光や居住区の開発を行おうとしているが、その点に成功すれば、新しい活気のある町として復活する可能性と資源を十分持っているように思われる。