11. Cottbus (2006.10記)    


グリーンで示されている箇所にはそれぞれ写真が添えてあるか、リンクを張ってあります。その部分をクリックすれば、それらが取り出されます。

   Cottbus には10年ほど前に1度行ったことがあるが、このときにはまだ復興がそれほど進んでおらず、しかも Frankfurt an der Oder の場合のように、DDR 時代の安普請の建築物が至る所に建てられており、とてもかつての町並みを取り戻すのは不可能と思われたため、後に触れる、ドイツ語をまったく話さない(つまりソルブ語しか話せない、としか思われない)老人との簡単な会話に面食らった程度の印象を持ったのみで、町自体はあまりきちんと見ることもなく、この町の北側に横たわる美しい Spreewald の中をドライブして帰ってしまったが、今年あらためて行ってみると、復興はかなり進んでおり、また活気もそれなりに取り戻していた。
   Cottbus は Berlin の市中を流れている Spree 川の上流の町で、名前の由来は諸説あるが、どうやらソルブ人の人名 Chotebud が元になっている、というのが有力な説らしい。但し、表記にも色々あり、1913年までは公式には Kottbus とされていたそうで、これは Berlin の南側の城門の名称として、今でも使用されている。面白いのは、市の紋章に海老が使われており、これにも諸説があって真相は分からないが、中世の領主たち(Cottbus 城伯)によって表章として使用され、後述の Klosterkirche に安置されている彼らの一人の墓標にその実物が見られるそうである。
   Cottbus は Halle と Schlesien を結ぶ交易路(Salzstraße)上の Spree 川の渡河地点に成立した町で、そもそもの始まりは、スラブ人がこの渡河地点を守るために建てた城砦(現在のSchloßberg)である。また、Cottbus の歴史において注目すべきことは、民族大移動の時代にこの地方にスラブ系の少数民族ソルベ人(Sorben)が住み着き、その後この地方一帯にはゲルマン系とスラブ系が混在し、現在でもそれが続いていることである。
   さて、Autobahn から Zentrum を目指して走ってくると、途中で大きな陸橋に差しかかるが、これは鉄道を跨いでいるもので、すぐ左にかなり大きな駅と操車場や駐車場が見える。さらに少し走って右折すると、Berliner Platz という大きな広場が現れ、左側に新しい大きなホテルやStadthalle(インフォメーションもここにある)が建っているが、この先が旧市街である。
   Stadthalle の向かい側はかなり大きな緑地帯(かつて町を取り巻いていた城壁の外側の堀の跡であろう)になっており、この緑地帯に沿って古い城壁が残っているが、その1ヶ所に Lindenpforte と呼ばれる旧市街への狭い入り口がある。この門は、この先の Marktstraße の周辺にかつてユダヤ人の居住区があり、そのシナゴーグへの近道だったために Judenpforte とも呼ばれていたそうである。ちなみに、この2枚目の写真は1枚目の裏側、つまり旧市街の内側を写したたものであるが、この左下に見える黒っぽい像は Postkutscher と呼ばれている、この町のマスコットのようなもので、このあたりに郵便馬車の停留所があったという言い伝えや、それにまつわるいくつかの伝説が残っている。
   この写真の右を曲がった先の Marktstraße を少し行くと、左側に Neumarkt、そしてその脇には Neues Rathaus が建っているが、これらは別に見るに値するものではない。むしろ、Marktstraße の先にある Altmarkt にはいくつか面白いものがあり、この広場は必見である。はじめて来た際には、この広場はまだ整備中で、混乱していたが、今では完全に Fußgängerzone になっており、建物はほぼ切妻造りや擬古典主義で統一されているが、但し前者も18世紀後半か19世紀のもので、特に見るべきものではない。建物で興味をそそるのは、現在では Apothekenmuseum になっているこの町の最古の薬局 Löwenapotheke で、ここには昔の調剤室や薬草の貯蔵室などがあり、実物が展示されているので、医学や薬品の歴史を知るには大いに役に立つ。これも統一後に建てられたものなので、それ自体はたいしたものではないが、広場の中央付近に八角形の Brunnen がある。泉の柱の上に漁師と子供と一緒になにやらケーキらしいものを右手に持った女性の像が建っている。この女性は、19世紀にバウムクーヘンを発明し、これが王室の宴会で不可欠のものとされるようになり、退職後に〈王室御用達職人〉という称号を与えられたそうである。バウムクーヘンの由来はドイツのいくつかの町にあるので、どれが正真正銘のオリジナルかはわからないが、Cottobus のバウムクーヘンもその1つなのであろう。なお Cottbus は、今ではドイツのいわば辺境に位置しているが、すでに触れたように、かつては東西を結ぶ交易路の上にあったと同時に、ここで南北をも結ぶ交易路が交差していたので、この広場で古くからかなり重要な市が催されており、木曜日が市民のための市の日であったが、年に2回は、ありとあらゆるものがここで売買されていたそうである。
   Altmarkt の北側の電車通り Berliner Straße を少し先にゆくと、宗教改革以前には St. Nikolai (どの町でもそうだが、この聖人は商人と漁民の守護神とされていた)と呼ばれていた Oberkirche という後期ゴシック様式の煉瓦造りの巨大な教会に出くわす(写真の前方がAltmarkt)。この教会は現在では福音派の教会なので、装飾その他には見るべきものはそれほどないが、1つだけ重要であり、しかも圧巻なのは、1661年に Andreas Schulze という細工師が建てた 11m の高さのある唐草模様の彫刻が施された祭壇で、ここにはキリストの生涯が彫り込まれている。
   Oberkirche の少し先に、スロープを少し上るところがあり、ここが冒頭に触れたいわゆる Schloßberg である。城自体は19世紀半ばに土台を残して焼け落ち、その上に裁判所が建てられているが、46m の高さの塔だけは生き残っている。Schloßberg の北側に Münzturm というこの町にいくつか残されている塔の一つが見えるが、この塔は城壁に後から付け足されたものだそうである。もともと貨幣鋳造所(Münzstätte)として使われていたらしく、塔の名称はそこから来ているのであろう。ちなみに、この近辺では昔ワインが作られていたそうで、1548年にはワイン製造業者が55もあったそうだが、ワインそのものは、中世のどこのドイツ・ワインもそうであったが、香草を混ぜないと、そのままではとても飲めたものではなかったそうである。
   Münzturm の西側には、かつての城壁の外側に存在した堀を埋め立てて作ったかなり長い、大きなプロムナードがある。これはかなり大きな公園であり、Cottbus の旧市街は、すでに触れた Lindenpforte の外側に広がる緑地帯と Spree 川の両岸の緑地帯によって取り込まれていることになる。
   Münzturm をプロムナード沿いに Münzstraße を東の方向に進んで左折すると、先に触れた Oberkirche のある広場に出るが、そこからさらに東に延びる道が Klosterstraße、そしてこの道の周辺は Wendisches Viertel と呼ばれている。Wenden というのは、そもそもスラブ人一般を名指すドイツ語だが、Cottbus 周辺のスラブ系住民はソルブ人なので、ここでは Wenden と言えばソルブ人を指しており、その言語も当然スラブ系である。Cottbus では、長い間弾圧されてきたソルブ人やソルブの文化を強力に保護しており、旧市街にソルブ博物館があり、また旧市街の外には LODKA (右の写真)と呼ばれる文化情報センターがあって、熱心な啓蒙活動を勧めている。もちろんそれぞれの道路に示されている道路名も、すべてドイツ語とソルブ語が並記されている。したがって現在は別として、Wendisches Viertel はかつてのソルブ人居住区であり、Klosterstraße をさらに先に進んだところに建っている、かつてフランシスコ会の修道院付属の教会であった Klosterkirche は Wendische Kirche とも呼ばれており、実際にこの教会での使用言語はソルブ語であった。なお、この教会には、すでに触れたように、そこに安置されている墓標には海老の紋章が描かれている。また、この教会の横にあるユースホステルは、かつてはビールの原料である麦芽の乾燥工場や、織物工場として使用されていた建物である。
   さてここで、Wendenstraße という小道を抜けて一度、すぐ南側にある Altmarkt に戻ろう。広場を突き抜けたところに Spremberger Straße という(通称Sprem)この町の目抜き通りがあるが、ここにもいくつか注目すべき建物がある。最初の建物は中程の Schloßkirchplatz に建っている小振りな教会 Schloßkirche であるが、この教会はドイツにおけるユグノーの移民の歴史と密接に関係している。18世紀にはいると、信仰上の問題でフランスを追われたユグノーがドイツ各地に移住してくるが、Cottbus も例外ではなく、ここにユグノーが住み着くことになる。1702年にはブランデンブルクの選帝候が彼らに土地と、当時 Katherinenkirche と呼ばれていた教会の使用を許可し、ここにフランス系の改革派教団が誕生することになる。この町のユグノーはタバコ工場や靴下工場などを開いて経済的に大いに貢献したが、この教会が Schloßkirche と呼ばれるようになったのは、ユグノーの移住以前にこの教会の礼拝が(度重なる火事のためか)先に触れた城の一部で行われ、それがあらためてここに移されたためである。
   Sprem をさらに南に少し行くと、右側にかつて城門の一部をなしていた、直径9m、高さ31mの Spremberger Turm が見えてくる。はじめて建てられた時機がいつであるかは定かではないが、14世紀にはすでに建っており、19世紀のはじめに至る所で建物に手を加えている、例の Schinkel が整形を施している。また向かい側には、一部にユーゲント・シュティールを取り入れ、銅板の丸屋根の上に Laterne を乗せた奇妙な建物が建っている。全体的に見て、この塔と建物が旧市街への南側からの門のような役割を演じており、そこから先に続く歩行者天国の道路がこの町の目抜き通りになっている、ということになる。なお、ここから右に斜めに延びている道路には Burgstraße という名前が付けられているが、おそらくこの道はかつての城壁に沿っているのであろう。事実、この道路の外側は Neustadt と呼ばれており、かつてこの町の経済を支えていた繊維工場の工業団地のような姿を呈していたそうである。町中には、工場の所有者が住んでいたかなり大きな邸宅が現在でも残っている。