4. Erfurt (2003.5記)    


グリーンで示されている箇所にはそれぞれ写真が添えてあるか、リンクを張ってあります。その部分をクリックすれば、それらが取り出されます。
   Erfurt に最初に行ったのは1990年の11月で、この時は Bochum に滞在していた折りに、車で Weimar とその近辺を訪れ、その帰途にほとんど瞬間的に覗いただけであった。当時の Weimar は統一直後だったため、観光客の受け入れ態勢がまだ全くできておらず、宿泊設備は数が足りないばかりか、きわめて不完全であり、有名な Hotel Elephant のレストランも、コックがパージされたのか、ひどい料理が出てくる始末、カフェーのコーヒーも代用コーヒーで、1泊だけで逃げ帰ってきたが、その帰りに、すでに暗くなってはいたが、ちょっと覗いてみようと思って Erfurt 寄ったのである。ろくな地図もなく、道路も暗かったため、見物したとはとても言えない有様であったが、とにかくかなり豊かな町であるという印象を持ち、ここにももう1度きちんと見に来ようと考えていたわけである。
   この願いは2年前に実現した。大学の Japanologie の若い教授に会いに行く必要ができて、同じように Berlin から出かけて行ったのだが、ここで少々驚いたのは、この大学の総長は教授ではなく行政官であり、名称もRektorではなく Präsident と称されていることである。この点について本人にも会ったので、直接聞けばよかったのだが、その時はこちらが Rektor であると思い込んでいたために聞くこともせず、結局事情はわからないままになっている。
   Erfurt 大学は1392年に創設されたが、1816年に経済的な事情で閉鎖されてしまい、200年近くたった1994年に、ドイツの最も新しい大学として再建された。哲学、国家学、教育学、カトリック神学の文系4学部からなる小さな大学で、ドイツ語と並んで英語も大学の公用語になっており、外国人学生の受け入れに重点を置くなど、最大限に国際性を保とうとしている。先に Japanologie と書いたが、これは正式には哲学部の東アジア史学科で、日本史と中国史の教育・研究が行われている。主任教授は Reinhard Zöllner さんである。
   ところで Erfurt の町だが、まず驚かされるのは、町の中央の Domhügelと呼ばれる小高い丘の上に2つの教会がそびえ立っていることである。特に、この Dom は限りなく壮大な姿を見せているが、それは、Chor の部分が下の Domplatz に突き出ており、10メートル近い高さの台座のような部分の上に乗っているからでもあろう。隣の St. Severi 教会との間にあるだだっ広い石段を登って行くと、左側に Dom の入り口があり、これまた壮大な後期ゴシックの大聖堂(一部ロマネスクのバシリカが残っている)の中に導かれる。13枚のステンドグラスは高さが20メートル近くもあり、美しい上、非常に壮観であるし、3つある塔の中央部に設置されている Gloriosa と呼ばれる大きな鐘は、音がよいので有名だそうである(残念ながら筆者は聞きそびれた)。隣の St. Severi の中は見なかったが、今でもこの町には教会が多く、しかも中世には90もの教会が存在したという説がある。修道院も多く、すべての修道会がそろっている感がある。ついでながら、Domhügel から東北方向に少し行ったところに、Augustinerkloster がある。ここには14世紀初めに作られたステンドグラスがあるが、何よりも有名なのは、Luther が1501年から05年まで大学の神学部で学んだ後、この修道院に11年まで滞在していたことである。Luther は確か雷に打たれた直後に修道僧になろうと決心し、この Augustinerkloster の扉を叩いたことになっている。
   Erfurt の町は20キロほど北で Unstrut 川に合流している、Gera という川を跨ぐ形で横たわっているが、この川には多くの小さな支流があって、これらが町を経巡って流れている。したがってこの町には緑が至るところにあるし、面白いのは、その支流の1つの上に Firenze のポンテ・ベッキオばりの、上に建物が乗った石橋が架かっていることである。1325年に架けられた Krämerbrücke と呼ばれるこの橋は、橋全体の両側に建物が建てられているので、橋の上を通っただけでは通常の道路と区別がつかない。下の川に降りてはじめて橋だとわかるのである。
   Erfurt には興味深い歴史的な建造物が沢山あるが、筆者が特に興味を持ったのは、ここにもおびただしい数の Fachwerkhaus が存在することである。Quedlinburg のそれのように、まだ完全には修復されていないが、ここにもさまざまな時代の Fachwerkhaus が立ち並んでいる。この町も大戦中に爆撃を受けたはずなので、Stadtchronik を覗いてみたが、44年から45年にかけて何度も爆撃を受けているものの、すべてが部分的で、したがってかなりの地域が無傷で残ったらしい。それを証拠づけているのが、保存のよくないものを含めた多くの古い Fachwerkhaus の存在である。
   Erfurt はフランク王国の東の辺境に位置し、カール大帝が王城を築いたところであるが、当時は主としてスラブ系の諸部族との交易のための市が開かれていたそうである。それ以前にすでに司教座が置かれていたが、数年後には Mainz の大司教座に統合され、以来1802年に至るまで、Mainz の選帝公の支配下に置かれていた。