8. Frankfurt an der Oder (2006.2記)    


グリーンで示されている箇所にはそれぞれ写真が添えてあるか、リンクを張ってあります。その部分をクリックすれば、それらが取り出されます。

   今まで訪れた旧東ドイツの町の中で、いくつかについては2度と来るまいと思わざるをえなかったほど荒廃し、ほとんど復興不可能に見える状態にあり、このオーダー河畔のフランクフルトも、その一つに属するものであったが、昨年あらためて訪れてみると、様相は一変していた。次に取り上げる Schwerin のように、たしかに荒廃しているとはいえ、一応 Mecklenburg-Vorpommern の州都である上、町の構造自体は基本的に保持され、また町を支える要素がかなり十分存在している場合にはよいが、このフランクフルトの場合は、道路をはじめとする旧市街の構造自体がかつての状態とは変わってしまっていたり、例えば教会などが、瓦礫のママの状態で残されていればまだしも、すでに全く別の用途に振り向けられていたりする場合には、復興はほとんど不可能であるように見える。特に教会は共産党政権下の、しかも辺境にある町であるために、その存在価値はほとんど認められていなかったように思われる。
   しかし、元の形に戻すことはできないとしても、フランクフルトは明らかに生き返っていた。その最大の原因はドイツ統一と、東ヨーロッパ諸国を含めたEUの統合によって、この町が新しい役割を演じ始めたことである。つまり、旧東ドイツ時代には辺境の町であり、ほとんど置き去りにされていたフランクフルトが、東欧に向けられた統一ドイツのいわば東の玄関口として、新たな政治的・経済的な地位を築き始めたのである。元来商業都市であり、ハンザ都市でもあったフランクフルトが、その本来の役割を取り戻し始めていると言ってよいのかも知れない。ドイツの道路網を見ればすぐ分かるが、1999年に開通した新しいアウトバーンによって、ルール地帯からベルリンを経てこのフランクフルトまで、幹線が東西ほぼ一直線につながっており、90キロしか離れていないベルリンからは、(時間帯によるベルリン市内から抜ける際の混雑を別にすれば)ほとんどの場合、約1時間で着いてしまう。フランクフルトにはオーダー川に架かっている橋が現在では3本あり、車と人が通る古い橋は旧市街の北側にあるが、南側にも新しいアウトバーンにつながる橋と鉄道橋がある。鉄道は、もちろん東欧諸国につながった動脈の一つである。これほどの地の利に恵まれた町は、ドイツ東部のどこにも他には存在しないであろう。
   フランクフルトはオーダー川に沿った細長い町で、全体の人口こそ6万強あるものの、町としては小さく、特に旧市街はきわめて狭い。この細長い町のオーダー川の反対側に Karl-Marx-Straße という、戦後作られた味も素っ気もない大通りが走り、そのはずれ(と言ってもこの大通りは別の名前でさらに南まで走っているが)に大きな十字路があって、その角にかなり重厚な中央郵便局と、町中のどこからも見える Oderturm というきわめて不細工で安普請の巨大なのっぽビルが建っている。このビルと Karl-Marx-Straße の向かい側は、現在かなり大規模なショッピングセンターになっており、東側の広場の地下には大駐車場が存在する。言ってみれば、ここが町を見物するルートの自動的な出発点となるが、道路を隔てた東側に、まず最初に目につく巨大な教会、 St. Marienkirche が建っている。この建物は、基本的には北ドイツのどこにもあるゴシック様式の煉瓦造り、しかもホール式の教会で、14世紀の後半に建造されたが、この町のほとんどすべての建物と同様、第二次大戦の末の爆撃で完全に破壊され、79年に一応の修復が完了したものの、現在でも、内部はもちろんのこと、あらゆる部分で大々的な修復工事が行われている。70年代にはまだ廃墟同然だったそうだが、筆者が統一後に始めて訪れた際も、ほとんどむき出しの柱や壁だけの惨めな姿をまだ晒していた。内部に関するかぎり、その印象は現在でも変わっていない。
   建物の構造はかなり複雑で、何度も増築されたり、改造が加えられたために、様々な様式と素材が入り交じった、何とも奇妙で不統一な外観を呈している。基本になっているのは西側部分だが、2つ存在した塔はその後の歴史の中で崩壊し、北側の塔には、例の Schinkel が望楼のような囲いや青銅製の尖塔を付け加えたり(クリックすると現れる写真は、上で触れた駐車場側から見た St. Marien の塔)、あるいは北側の中央部分には、砂岩で作った半円形の入り口ホールのようなものが付け加えられている。14世紀に東側に付け加えられた煉瓦造りの中廊と内陣(Chor)を覆っている赤い巨大な屋根は、かなり遠くからでも目立つ独特の外観を呈している。疎開した宝物類は少し南の森の中にある St. Getraudkirche に収められており、また、幸運にも3つだけ残っていた Chor の部分の見事なステンドグラスは、現在修復中である。これらのステンドグラスは、戦後ソ連に運ばれ、ペテルスブルクに保管されていたが、2002年に町に返還されている。いずれにせよ、徐々に昔の面影を取り戻しつつあるが、現在の状態はまだほとんど工事現場で、実物を見てもあまりイメージがわかない。(前の段落の St. Marienkirche をクリックすると現れる写真と、左上の画像を参照されたい。この画像は1840年頃の姿を示している。)
   この St. Marienkirche の北側も広場と駐車スペースになっており、この広場にはこの町で最も注目すべき建造物、 Rathaus が存在する。13世紀半ばに建造されたこの Rathaus は、ドイツに存在する市役所の建物としては最大かつ最古のもののうちの1つで、14世紀の後半に作られた南側の切り妻は何と言っても華麗で美しい。現在、1階の広いホールは現代芸術の美術館になっている。
   Rathaus からオーダー川の船着き場の方に歩いてゆくと、Kleistmuseum がある。Kleist は1777年にこの町で生まれているが、生家は残っておらず、その代わりに、丁度その生年に完成したとされる、フリードリヒ大王の甥であり、当時の駐留軍の司令官であった Leopold von Braunschweig 王子の要請によって建てられた、軍の付属学校を利用して、Kleist に関するあらゆる情報を収集した記念館が作られている。
   余談になるが、この Kleistmuseum からオーダー川の岸辺に出たところに船着き場があり、そのすぐ傍にいわゆる〈ジャガイモレストラン Kartoffelhaus〉がある。こうしたレストランは東ドイツの大抵の町にあるが、要するにジャガイモ中心のレストランで、多くの場合、メニューを見ると、料理が肉や魚といったメインの食材で分類されているのではなく、例えば焼きジャガ(Bratkartoffeln)あるいは茹でジャガ(Salzkartoffeln)ステーキ添えといった風に、ジャガイモの調理法で分類されているレストランである。ここのレストランはそれほど徹底してはいないが、それでもありとあらゆる種類のジャガイモがそれぞれに合った調理法で提供され、それに肉や魚が〈添えられて〉いる。
   ここからオーダー川のプロムナードを歩いてゆくと(橋の上に出るには、一度岸辺を離れて回り道をしなくてはならないが)、ポーランドとの国境になっている橋に出る。しかしその前に橋の下をくぐって、その北側にあるかつてのフランシスコ会の修道院に行ってみたい。もちろん北ドイツであるから修道院はもはや存在しないが、13世紀から16世紀にかけて建てられたこのかつての修道院付属の教会堂(Franziskaner Klosterkirche)は、きわめて単純な構造をしており、その中廊は現在では Carl Philipp Emanuel Bach の名前を付したコンサートホールになっている。屋根の形も、左の写真からも分かるようにきわめて単純なので、川の向かい側からもその存在がはっきり分かる。教会堂の傍には音楽学校もあり、また、写真の左側に見える二つの尖塔は、傍にある Friedenskirche (かつての Nicolaikirche)のもので、この建物も、目下修復中である。
   このあたりからオーダー川とは逆の方向に、Karl-Marx-Straße を横切って少し先へ行くと、昔の城壁の堀のあとである Lennépark という南北に細長い公園があり、かなりたっぷりした堀の水も残っている。城壁のわずかな残骸も残っているらしいが、よくは分からない。
   この公園を跨いでいる Rosa-Luxenburg-Straße を元の方向に戻ると、Stadtbrücke という橋があり、この橋がポーランドとの国境になっている。現在では両方の市民はかなり自由に行き来しており、ドイツ人は野菜などの日用品やタバコをポーランド側の町 Stubice で、ポーランド人は手に入りにくいものなどをドイツ側で買っている。タバコは信じられないほど安いし、ユーロでも買えそうだが、おそらくポーランドの通貨に替えた方が有利なはずである。節煙しているので買う気はなかったが、ポーランド側に入るとタバコ屋だらけである。もちろんわれわれ外国人はパスポートを見せて、出入国の手続き(印を押すだけ)をしなくてはならない。
   なお、この町には1991年に創建された Europa-Universität Viadrina という大学があるが、元来フランクフルトには、16世紀初頭から19世紀初頭にかけて同じ名前の Viadrina という大学が、Brandenburg における最初の大学として存在し、ここでは Humboldt 兄弟、Ulrich von Hutten、先に触れた Carl Philipp Emanuel Bach、Thomas Müntzer、Heinrich von Kleist などが学んでいる。この古い大学が閉鎖されたのは、1810年に Humboldt の名前を付した新しい大学が Berlin に創設され、知識階級や官僚の要請という、政府の要請の受け皿が大規模な形で作り上げられたためであり、ここで教えていた多くの教授が新設のBerlin大学に移っている。新しい大学が〈ヨーロッパ=大学〉という名前を冠しているのは、国際性をその活動の最も重要なメルクマールにして掲げている点にあるが、たしかにポーランド人の学生が三分の一を占めるなどに、ドイツ人の若者のみのための大学ではないことは明確に現れてはいるものの、このメルクマールが現実的なものとして十分に機能しているかどうかについては、疑問がないわけではない。