9. Schwerin (2006.2記)    


グリーンで示されている箇所にはそれぞれ写真が添えてあるか、リンクを張ってあります。その部分をクリックすれば、それらが取り出されます。

   Schwerin などという町の名前自体ももちろんのこと、この町がドイツ連邦共和国のある州の州都であることなどは、日本ではほとんど知られていないであろう。しかし歴史を繙いてみると、この町が北ドイツに存在する Mecklenburg(最終的には Mecklenburg 大公国)という地域において、きわめて重要な地位を占めていたことが分かる。
   ある町がその場所に成立したことに関しては、もちろん様々な理由がそれぞれの町について存在し、例えば Wismar の場合ように、自然の良港を持っているとか、Wittenberg の場合のように、交通の要になりうるといったことが考えられるが、Schwerin にはそうした特記すべき成立の理由が存在するようには思われない。しかし、ここにはゲルマン民族の時代以前から集落が存在したようであるし、それなりの成立の根拠があったのであろう。ちなみに Schwerin の実質的な創設者は、東方進出を開始したザクセンのハインリヒ獅子公(Heinrich der Löwe。ほぼ同時にバイエルン公)である。後に触れるように、たまたま Schwerin にはスラブ人の城砦(Zuarin)があったために、ここがザクセンの東方支配の拠点になったのかも知れない。
   筆者がこの町を始めて訪れたのは、統一後わずか数年経った後のことであり、その時の印象はいまだに脳裏に焼き付けられたいる。大都市である Rostock と争ったあとに州都となった直後であったため、州政府関係の建物は新築されたり、あるいは既存の建物の改造が始まっており、それなりの活気はあったが、いくつかの主だった通りの裏に回ると、そこはほとんどもう瓦礫の山で、人気などは全く感じられない惨めな様相を呈していた。後で知ったことだが、Schwerin は戦災には遭っておらず、したがってこの瓦礫の山は爆撃によるものではない。むしろ自然に崩壊する過程を放っておいたためで、特にナチ時代には、町の相当の部分の意識的な取り壊しが行われたが、ほとんど無計画な企てであり、途中で取り壊しをやめたりしたために、その状態が旧DDRの時代にそのまま捨て置かれていたようなのである。しかしこの印象は、その後数年して再び訪れたときには一変していた。相変わらず裏通りに入ると瓦礫の山は残っていたが、全体としては見違えるほど復旧し、まるで別の町に来たような感じであった。昨年3度目にまた訪れたが、ほとんど90%は生まれ変わっていた。旧東ドイツの町の中で、これほどラディカルに変貌した町は、筆者の知るかぎりでは東ベルリン以外にないのではなかろうか。
   もっとも、Schwerin の旧市街はきわめて狭い。したがって、例えば爆撃で完璧に破壊された Dresden のような大都市の復興に比べれば、そこに費やされる労力も経費も比較にならないほど小さかったに違いないし、さらに重要なのは、Dom以外に(後にあらためて触れるように、これとてすでにかなり前に多くのものが失われていた)そもそも〈復旧〉すべき古いものものがほとんどなかったことである。そもそもこの町は中世に何度も火災に遭い、ほとんどの古い建物がすでに焼失しているばかりか、30年戦争の際には Mercklenburg の住民はわずか1/6しか生き残らなかったとさえ言われており、中世の遺産はもともと存在していなかったのである。
   そのような Schwerin に関して真っ先に触れておく必要があるのは、好き嫌いは別として、隣接する Schwerin 湖(Schweriner See)に浮かぶ平らな小島の上に聳え立っているであろう。お伽噺に出てきそうな、きわめてメルヒェンチックな中世風の城だが、現在のものは1857年に完成した比較的新しいもので、宮廷建築士の Georg Adolph Demmler が、Dresden のオペラ座や Gemäldegalerie を建てた Gottfried Semper らの援助も受けて、周到な計画の元に(フランスのロアール川沿いに沢山にある、どこかの本物の中世の城を真似たらしい)建て直したものである。但し、それはあくまで建て直しであって、この島にはすでに触れたように、そもそも12世紀までスラブ系のオボトリート(Obotrit)人の城砦があり、1160年にザクセン公 Heinrich による東方制覇以降、Mecklenburg の諸侯の城砦として整備が続けられてきた。内外とも、なかなか趣味のよい、美しい城で(Bayern の Neuschwanstein とは大違い)、北側は橋で旧市街に直結し、南側も同じように橋でフランス風の広大な Schloßgarten につながっている。城の周りに作られている Burggarten に設置されている Orangerie やテラスなども、きわめて快適で、散策するのに気持ちのよい場所になっている。町自体が長い間ひどい状態にあったにもかかわらず、人々をこの町に引きつけていたのは、この城の存在と湖であろう。なお、この城は単なる観光の名所ではなく、現在では州議会の議事堂としても使用されている。
   橋を渡って旧市街に戻ろう。橋を渡ったすぐのところには、Alter Garten という広場があるが(現在整備中)、この広場には3つの建物が建っている。橋から見て1番右側に建っている擬古典主義の建物は州立美術館(Staatliches Museum)で、ここには Mecklenburg 大公国家が蒐集した絵画、特に16世紀のオランダの絵画が多数存在している。その左にあるのがルネッサンス風の劇場で、Schwerinの文化的な伝統の一つになっているオペラが上演されることが多い。橋から続いている Schloßstraße との角にあるのが、Altes Palai と呼ばれる Fachwerk の宮殿で、これはかつて皇太子や大公妃の館として使用されていたものである。美術館の道路を跨いだ湖畔に船着き場があって、ここからかなり大きな湖に、大小の船で遊覧に出かけることができる。東ドイツの北の地方は、このあたりを含めて氷河期には氷河の縁になっており、氷河が後退する度に大地を削っていったために、無数の湖ができあがっている。Schweriner See の場合もそうだが、こうした湖はまだ観光用の開発が進んでいないので、自然の風景が満喫できる。
   さて、Schloßstraße を少し上ってゆくと、たちまち歩行者天国(Fußgängerzone)が始まり、したがって、車は中心部には全く入ることができない。この通りには、首相府(右の写真)などの州政府のいくつかの立派な建物が並んでいるが、すぐ右に折れて Puschkinstraße をしばらく行くと、旧市街の広場(Altstädtischer Markt/Marktplatz)に出る(この写真は目抜き通りの Mecklenburgstraße に続く、広場の西側の小道。少し手前の路地を入ると Dom に出る)。
   ここは比較的小さな広場であるし、言及すべきものもあまりなく、むしろ言ってみれば様式破壊(Stilbruch)の見本のような広場である。何度かの火事で焼け落ちた後に、城の改築に関わった宮廷建築士のDemmlerがチューダー・ゴシック様式風に建て直した市役所(右の写真の左側)や、18世紀末に小さな雑貨店(Krambuden/-laden)を並べるために建てられた Säulengebäude という円柱の並んだ建物(左の写真。現在は博物館になっている。裏に見えるのが Dom の一部で、右側に見えるのが市役所)など、どうしようもない感じで、むしろすぐ近くに聳え立っている Dom の偉容によってすべてが霞んでしまっている。
   その Dom に行く前に、市役所の建物のアーケードを通って裏側に回ってみよう。そこには無味乾燥なMarktplatzとは大違いの Schlachtermarkt という、木々が茂り、Fachwerkhaus に囲まれた何とも気持ちのよい小さな広場がある。現在では定期的に花や野菜の市が立ったり、行商人の露天が並んだりしているらしいが、もともと19世紀の末に、ここに建っていたいくつかの建物を取り壊して広場にしたそうである。(取り壊しによる再構築の唯一の成功例?)
   一度広場に戻って Säulengebäude の左側の路地を入ると(すでに目の前に聳え立っているが)Domに突き当たる。この Dom は、Schwerin に残されているほとんど唯一の中世の建築物である(右の写真は後に触れる Pfaffenteich から見たもの。上の〈Dom〉をクリックすると現れるのは、広場から見える姿。もちろんこちらが南側)。Dom という名前を持っている以上、この教会は当然のことながら司教座であることを意味するが、ここに司教座が置かれた(正確には移された)のは、1160年以降、Wismar が政治的・宗教的に重要な役割を演じ始めたためである。最初の会堂は1171年に建てられたが、司教座がますます重要性を帯びてきたために、世紀末には新しい建物の建築計画が動き出し、1248年に後期ロマネスク様式の新しい建物が完成している。しかし十字軍の遠征の際に持ち帰られたキリストの血が聖遺物としてここに安置されたために、巡礼地の役割を果たすようになり、13世紀の後半から15世紀にかけて、3番目の会堂の建設が実現に移されることになる。現存の Dom の基本になっているのはこの3番目の建築物であるが、但し、その後建てかえのために一部が取り壊されたり、あるいは宗教改革時代に聖遺物をはじめとするカトリック的な部分をできるだけ消去しようとしたために、当時の建物の付属物や宝物はあまり残っていないし、計画では2本であるはずの塔の建設も未完成に終わり、117.5m の高さを誇る現在の尖塔は、19世紀末に付け加えられたものである。
   Domから西側に向かうと、すぐに先程触れた Schwerin の目抜き通り Mecklenburgstraße に出る。但し、目抜き通りといっても小さな町のものであるからごく小規模で、小綺麗なショッピングの場所といった感じである。さらにこの通りを北の方に向かうと、 Pfaffenteich というかなり大きな長方形の池の畔に出る。この〈池〉は人工のものであるが、その歴史は古く、12世紀に町が建設されたときにはすでに存在したとも言われており、そもそも製粉用の水車を回すためや、町の北西部の守りを固める目的のために作られたようである。昨年訪れたときにはボート競争か何かに使うために、水面がロープか何かで区切られたりしていたが、いずれにせよ池の周囲は快適な遊歩道になっている。また、周囲にはいくつかの立派な建物が建っているが、その中で最も注目すべきものは、南西の角に立っているかつての兵器庫であろう(右上の写真)。このチューダー・ゴシック様式風の建物は、今までにも触れた Demmler の設計によるもので、後に軍や警察の建物として使用され、統一後は州内務省の建物となっている。
   昨年訪れたときには気づかなかったが、Mecklenburgstraße のもう1つ西側に Marienplatz という広場があり、その角に Schlosspark-Center という巨大なショッピングセンターができている。最近はやりの、どこにでもあるアーケード風の、120ほどの店やレストラン、カフェーを擁したショッピングセンターである。