10. Wismar (2006.2記)    


グリーンで示されている箇所にはそれぞれ写真が添えてあるか、リンクを張ってあります。その部分をクリックすれば、それらが取り出されます。

   すでに10年近く前になるが、はじめて Schwerin に行った後で Wismar を訪れた際には、その豊かさにかなりびっくりした。後にいろいろ聞いたり読んだりした限りでは、そもそも Schwerin という町は、かつての有力なハンザ都市で、自治権をめぐってたえずその時々の支配者との間でかなりの確執があったものの、バルト海につながる Wismar 湾に接する自然の良港をもっていたために、バルト海の沿岸諸都市との交易で大いに栄えていたようある。(Wismarに関する詳しい歴史については、HPのHistorieのページ参照。)
   現在の Wismar の 5km ほど南に Dorf Mecklenburg という小村があるが、ここにはかつて(995年)Mecklenburg の支配者の城砦(Burg Mecklenburg)が建てられ、10〜12m の高さの城壁に囲まれていたそうである。
   1226年に Mecklenburg 侯 Heinrich Borwin によって aqua wissemara という小川の河口に人工的に町が建設され、Mecklenburg はもちろんのこと、Westfalen や Schleswig などから住民が移住してきたと言われている。1257年には、Johann von Mecklenburg が郊外に新しい城砦を建てて、上述の Burg Mecklenburg から移転し、そこが1358年まで Mecklenburg 侯国の首都になっていた。1259年には Lübeck、Rostock などと共に、新しく結成されたハンザ同盟に加入し、1276年には4mほどの高さの Stadtmauer が建設されている(現在その一部と、5つの Tor のうちの1つ、Wassertor が残っている)。
   ハンザ都市としての交易活動の中では、さまざまな物品が輸入ないし輸出されたが、特に重要だったのは当時の最大の輸出品であったビールで、特に Braunschweig で有名になった Mumme と呼ばれるビールの生産のために、15世紀には醸造業者が182も存在し、年間40万ヘクトリッターのビールが生産されていたと言われている。
   都市が豊かになるにしたがって、都市貴族と職人の間に長年にわたって政治闘争が繰り広げられ、結果的に19世紀前半に至るまで、職人組合は参事会に代表を送ることもできなかったと言われている。この町には現在でもかなり大きな教会が残っているが、ここでももちろん教会が大きな役割を演じていたものの、興味深いことは、一時期、教会には土地を購入する権利が与えられていなかったり、修道院には支配階級、騎士、犯罪の嫌疑がある者は入れず、また、財産は市民にのみ売ることができるなどといった、かなり大きな制限が加えられていたことである。いずれにせよ15世紀には、修道院関係を含めて、Wismar には250人の聖職者が存在し、これらが市民によって経済的に支えられていたと言う。当然のことながら修道院は宗教改革以後、閉鎖されて貧民救済施設や学校などに作りかえられている。
   30年戦争中は、この町も押しなべて甚大な被害をこうむり、多くの建物が破壊され、飢餓や疫病によって1000人もの住民が死亡したと言われている。最終的に1648年以降、Wismar はスウェーデン王国の支配下に入ったが、スウェーデン女王が市の権利をかなり大幅に認め、経済的な発展の促進にも努めたため、市民はスウェーデンに対してかなり好意的で、現在でも Marktplatz に Der Alte Schwede という、当時スウェーデン軍の司令部があったゴシック様式の Giebelhaus がほぼ往時のままの形で残されており、またここかしこに、スウェーデン占領下の記念物が見出される。事実、市民は自分の町を〈南スウェーデン〉とさえ称していたそうである。
   18世紀のはじめには、デンマーク、プロイセン、ハノーファーの連合軍によって、また7年戦争時には、プロイセン軍の攻撃を受けることによって、町は再び甚大な被害をこうむり、最終的には1803年に、いわゆる Pfandvertrag が結ばれ、Wismar は実質的に再び Mecklenburg(公国)の支配下に入る。その後、ナポレオン戦争などによって相変わらず困難な時代が続くが、19世紀後半から徐々にその地の利、特に造船などに基づく港湾の利点を生かした経済的な発展が始まり、現在でもドイツ各地に支店網を持つデパート Karstadt の発祥の地になったり、鉄道車両の建造や木材加工などで潤ってゆく。それと共に軍事的な要衝ともなり、その結果、第二次世界大戦中は悲惨な状態の中に置かれ、12回にわたってイギリス空軍の絨毯爆撃に遭い、住居の30%、工場群の80%が焼尽に帰することになる。
   DDR時代になってからも、港湾および工業都市としての地位は変わらず、経済的な豊かさにおかげで、建築物などの復興計画はすでに70年代から始まっており、もちろんこの流れは統一後はさらに強化され、文化財保護に関する模範的な都市として表彰されてもいる。2000年に同じバルト海沿岸都市の Stralsund と共に世界遺産に認定されたのは、むしろ当然のことと言えよう。
   余談になるが、ドイツの最近の比較的上級のレンタカーにはナビゲーター付きのものがあり、もちろん日本のナビゲーターのように、カラフルで立体画像まで現れるものに比べれば少々見劣りがするが、いずれにせよ、町の名前と建物の名前をセットすれば、ほとんど自動的にそこまで連れて行ってくれるので、旅行者には不可欠の道具で、何よりも、迷うことがないので、時間の節約になることは請け合いである。今回の Wismar 訪問にもこれを利用したが、Rathaus に設定しておいたところ、文字通り、建物の正面まで連れて行ってくれた。もちろん、Rathaus は言うまでもなく他の都市の場合と同様に Marktplatz に面しており、この広場は市営の駐車場も兼ねているので、当然ここがWismar見物の出発点となる。(上の写真は Marktplatz から見た北側左の路地の入り口で、右に Rathaus の一部が見える。)
   しかし Marktplatz でまず目につくのは、広場の南東側にある青銅製の水汲み場(Wasserkunst)である。初期の頃は、飲料水は地下水に頼っていたが、人口の増加とビールの製造のために大量の水が必要となり、いくつかの町で行われていたように、丸太をくり抜いたパイプで近くの町から水を引いていたが、Wismar では、すでに17世紀の初めに組織的な水道を町中に引き込み、この Marktplatz の水汲み場には、あずまや風の青銅製の建造物が建てられることになる。現在の建造物は1970年代に修復された新しいものだが、歴史そのものは古く、同時に町には、200軒近い住居に水道水が引かれていたそうである。水はそれぞれの住居の地階部分に引き込まれていたが、幹線があって、そこから支線が引き込まれていたわけではなく、言ってみれば、水路が多数の家の地階部分を貫いて引かれていたことと、Philipp Brandin という、オランダのユトレヒト出身の建築家がかなり恣意的に水路を作ったために、上流と下流で水量に差が生じたり、あるいは、上流に当たる家では当然の事ながら水量が多いために、湿気が多くて衛生上かなりひどい状態に置かれていたそうである。この Waaserkunst の屋根の庇に当たる部分にラテン語で〈水の歴史〉が記述されており、下部にもそのドイツ語訳が記されている。
   Marktplatz にはいくつか重要な歴史的建造物が建っているが、東側で特に目立つのは、1380年に立てられた煉瓦造りのゴシック様式の切妻作りの建物(Giebelhaus)である。先に触れた Alter Schwede(老いたスウェーデン人)と呼ばれているこの建物は、Wismar で最も古い民家であるが(もちろん最近原型に近い形で修復されたものである)、もちろんその間にさまざまな目的に使用され、現在ではレストランとして使われている。Marktplatz に面している最大の建築物は Rathaus であるが、もともと後期ゴシック様式で建てられていたこの建物は、左側の部分が崩落したために、19世紀の初めに擬古典主義様式で建て替えられたものであり、かつての建物で残っているのは、現在町の歴史博物館になっている地下部分のみである。
   Wismar の旧市街は、この Marktplatz からほぼ放射状に延びた路地の網の目によって構成されており、これらの路地の名称から、かつての居住者の職業を推測することができる。例えばどこにでもある〈魚屋通りFischerstraße〉や〈粉屋通りMühlenstraße〉はもちろんのこと、〈皮なめし屋通りGerberstraße〉、〈棺桶屋通りSargmacherstraße〉、〈靴直し通りAltböterstraße〉など、そしてその中でもかなりふざけているのは〈泥棒通りDiebstraße〉である。
   さて、Marktplatz から西向き、今触れた奇妙な名前の〈棺桶屋通り〉という路地を進んで行くと、正面に巨大な〈塔〉が現れる。〈塔〉と書いたのは、これは元々は聖マリア教会(St. Marien)という後期ゴシック様式の、煉瓦造りの市参事会直属の教会だったが、第二次世界大戦の際の爆撃で崩壊寸前の危険な状態に陥ったために、1960年に本体が人為的に爆破され、現在では80メートルの高さの、市内のどこからも見える塔のみが残っているからである。この教会は最初は23世紀に建てられたもので、15世紀には大改造されて大規模のものとなったが、塔の尖塔の部分は雷が落ちたために崩れ落ちている。ちなみに、ヨーロッパの雷はエネルギーが大きいため、しばしば街の建物の尖塔に落ちて、火災を引き起こしてきた。ヨーロッパの建築物は元来木製だったが、主要な建築物が石造りに作り替えられたり、あるいは石造りに変えられたとはいえ、屋根の骨組みは木製なので、落雷や、もちろん爆撃には弱い構造になっていたのである。教会は中世を通じて雷により災害を神の裁きとみなし、したがって避雷針の発明が教会の権威を低下させる最大の要素になったことは周知の通りである。
   St. Marien の横には、かつてはメークレンブルク公の夏の離宮だった Fürstenhof が建っている。この建物は、古い部分は後期ゴシック様式だが、新しい部分はイタリア・ルネサンス様式のもので、スウェーデンの統治下にあった時代には裁判所として使われていたそうである。さらにその隣には、かつては町の職人たちの教会だった St.-Georgen-Kirche がある。この教会もかなり古い煉瓦造りのもので、13世紀に建築が始まったが、同じように大戦中に爆撃を受けて崩壊し、現在では新たに修復されている。(左上の写真は港の方から見た St. Marien の塔[左]と St.-Georgen [右])
   この二つの建物から少し北に行ったところに、14世紀に建てられた聖霊教会(Heiliggeist-Kirche)と名づけられているこじんまりとした同じく煉瓦造りの建物があるが、この教会の長堂(Langhaus)は、言ってみれば病院で、かつては死を間近にした老人の世話をするための施設として利用されていた。さらに北に少し歩いて行くと、古い港(Alter Hafen)に達するが、このあたりには、町の東にある池から引かれている人工の堀川(Grube)が港に注いでいる。
 こうした堀川の存在は最近のドイツの町ではきわめて珍しく、市の計画では、駅までの両岸を歩行者天国にするそうである。かつてここは、丁度日本のいくつかの町と同様に、洗濯場となっていたらしいが、現在では観光名所の1つというだけでなく、火事の際には途中をせき止めて消火用水に使うそうである。
   港はきわめて広大なもので、特にびっくりするのは、Alter Hafen の左に聳えているスウェーデンの資本による巨大な造船所で、屋根付きのこの造船所は長さ約400メートル、幅150メートル、高さ75メートルであり、ここで巨大なコンテナー船や豪華な客船が建造されているという。港の全体は少々のことでは全貌がつかめないが、Alter Hafenは個人所有のヨットや漁船のたまり場で、牧歌的な雰囲気の可愛い港である。但し、現在この港は都市計画の進行中で数年前の面影は残念ながらしばらく失われている。
   港の横にはすでに触れた、ただ一つ残っている城門 Wassertor が見える(左の写真は港に面した旧市街の外側の姿)。現在のこの城門は、15世紀半ばに後期ゴシック様式で建てられた煉瓦造りのもので、人は通れるが、車の通行はできないようになっており、また、切り妻風の建物の上階は船乗りのクラブやレストランになっている(レストランからの港の眺めは抜群と言われているが、残念ながら、筆者は入ったことがない。上の港の写真の左側の隅にも見える。右側に見える塔は St.Marien のものである)。
   この Wassertor を抜けて、再び旧市街の迷路のような小道を中心部に向って歩いてゆくと、堀川のほとりにNikolaikircheと呼ばれる巨大な教会が現れる(右の写真参照)。この教会は、14世紀の末から約100年の歳月をかけて建造された船乗りや漁師のためのもので(先に挙げた2つの教会と同様、それぞれが職種を代表しているところが面白い)、37メートルの長さの中廊は、煉瓦造りのものとしてはリューベックの Marienkirche に次ぐ、ドイツ第二の大きさを誇るものである。側廊の上部に並んでいるいわゆる飛び控え(Strebbogen)は、何となく巨大なボートのオールのように見える。この教会の塔は、かつては120メートルの高さを誇っていたが、暴風で崩壊したため、現在のものは巨大な中廊と比べると質素なものである。
   堀川を跨いだ Nikolaikirche の南側には Schabbellhaus という、16世紀後半に建てられた前期ルネッサンス風の、同じように煉瓦造りの建物がある。Schabbellというのは、ビール会社の持ち主であり、当時の市長でもあった人物の名前で、建築家は Wasserkunst を建てた Brandin である。現在では町の歴史の博物館になっているが、興味があるのは、北ドイツ最大の医学史上の蒐集品が集められていることである。