6. Wittenberg (2004.5記)    


グリーンで示されている箇所にはそれぞれ写真が添えてあるか、リンクを張ってあります。その部分をクリックすれば、それらが取り出されます。

   Wittenbergは、Berlin から Dessau に行く同じ Autobahn (9号線)を2つ手前のインターで降りて、東に15kmほど走ったところにある。人口 52,000 の中都市で(統一前とくらべるとわずかに減っている)、1938年に Lutherstadt という公式の異名が与えられているとおり、言わずと知れた Luther ゆかりの町である。Elbe 川の橋が戦争中にドイツ軍によって破壊された以外は大きな戦禍を被ったわけでなく、また、昔からの第一級の観光地でもあったため、かなり豊かな町であることは間違いない。しかもWittenbergは、中小企業から大企業までのさまざまな業種の企業が集まった、かなり重要な工業都市でもある。
   Wittenberg の Luther ゆかりの建築は、Luther の生地である Eisleben のそれと共に、1996年に Dessau と同じように世界文化遺産に指定された。先に紹介したQuedlinburg と今回の Dessau の2つと共に、Sachsen-Anhalt 州には UNESCO の世界遺産が4つ存在することになる。
   Wittenberg は Berlin と Leipzig、München を結ぶ国道2号線が Elbe川 を越えるためのの北側に位置し(鉄道についても同じように Berlin と München をつなぐ Linie 28上にある)、13世紀末に都市の権利を付与された交易の要所の1つであった。15世紀末から16世紀にかけて Sachsen の選帝公 Friedrich III 世(der Weise)が居城とすると同時に、今触れたいわゆる Elbbr&uuuml;cke の建て替えを行い、さらに城と、Luther がその扉に95箇条のテーゼを貼り付けた Schloßkirche の建設、大学の創設などを行って宗教改革のお膳立てをするなど、その後の Wittenberg の歴史の基礎を築いている。
   Wittenberg の Innenstadt は東西に1,400mほどのきわめて細長い街で、そこに道が2本(Marktplatz のところからは3本)通っており、見るべきものはすべてこの中に集中している。Autobahn を降りて Dessauer Straße を走ってきてまず眼に入るのが、もとは Friedrich III 世の私的な教会であった Schloßkirche の88mの丸い塔である。登るのにかなり苦労するらしいが、ここからの町の眺めは誠に素晴らしいと、案内書には書いてある。そしてこの教会の入り口の扉が、例の Luther が95箇条のテーゼを貼り付けた扉であるが、もとの扉は7年戦争の際に焼けてしまったため、Lutherの生誕375年にあたる1858年に、ブロンズで作り直したそうである。ちなみにこの扉からは中に入ることができない。Schloßkirche には LutherMelanchton の墓が安置されているが、そもそもこの教会は Wittenberg の大学の墓地のような感じで(事実、大学創設後は大学付属の教会でもあった)、100人近くの学者の墓所ともなっている。
   Schloßplatz を挟んだ Schloßkirche の向かいには、スウェーデン王カールXII世やロシア皇帝ピョートルI世なども訪れた Gästehaus (Alte Canzley)があり、さらにこの広場から出ている2本の道の右側(Schloßstrase )を少し行くと Marktplatz (写真は Marktplatz の光景。左がRathaus、右がSt.Marien、手前が Melanchton、奧がLutherの像)に出るが、その右側手前の角に84の暖炉付の部屋があったとされるクラナッハ(Lucas Cranach d. A)の壮大な屋敷 Cranachhaus がある。クラナッハはもちろん Friedrich III 世の寵愛を受けた優れた宮廷画家であり、また注文も多かったために、ここに30人の職人を抱える工房を作って共同作業を行っていたらしいが、同時に出版業や薬局を経営したり、はたまた市の参事会員から市長まで務めている。(建物の一角に、現在でも Cranach という名前の古めかしい薬局がある。写真の建物の左角がその薬局)
   Marktplatz の北側にどっしりとその姿を横たえているのが1535年に完成した Rathaus で、市役所の業務自体は今では2000年に完成した新しい建物に移っており、ここはレセプションや市の催しのために使われているにすぎないが、古い銅版画などと比べてみても、外見はほぼ原型のままである。面白いのは1573年に、正面入り口に Gerichtsportal と名づけられているルネサンス様式のバルコニーが付け加えられ、ここで新しい法律の布告がなされたり、裁判の判決の読み上げ、あるいはその前で処刑さえなされていたことである。
   Rathaus の前には LutherMelanchton の天蓋付の像が麗々しく建てられているが、前者は1821年に、後者は1860年に立てられたものである(Luther の像の天蓋はSchinkel によるもの)。
   Marktplatz から1区画先のところには Kirchplatz という広場があり、そこには2本の塔を持つ、Wittenberg 最古の建築物であるゴシック様式のStadtkirche(St. Marien)が立っているが、塔とFassade の上部は Marktplatz からも見えるので(Marktplatz の写真参照)、一見この広場に面して立っているように錯覚しがちである。2つの塔の屋根の部分は、はじめは尖塔だったらしいが、シュマルカルデン戦役の際に大砲の台座にするために平らにしてしまい、現在ではかなり不釣り合いな六角形の屋根と、その上には Dessau の Rathaus と Marienkirche のものに似た、明かり取り塔が載せられている。この教会は周知の通り、Lutherが説教を行っていた場所であり、また Flügelaltar の祭壇画はクラナッハ父子とその工房によるのものである。
   Schloßstraße に続く Collegienstraße をしばらく行くと、右側にかつての大学の建物がある。すでに触れたように、Wittenberg の大学は1502年にFriedrich III 世によって創設され、Luther や Melanchton がここで教鞭を執り、当時は「勉強するならWittenberg へ行け」と言われたほどの優れた大学だったが、1813年にナポレオン軍の占領下に置かれ、さらに Sachsen が Preußen の支配下に置かれた後の1817年には、Halle 大学に統合され、教授陣がすべてHalle に移されることによって、実質的に大学は閉鎖されることになる。但し現在ではこの歴史が生かされて、Halle 大学の正式名は Martin-Luther-Universität Halle-Wittenberg とされている。ちなみにかつての大学の建物は1842年にプロイセン軍の兵舎になり、それ以来1918年までWittenbergは軍の駐屯地となったが、現在 Halle-Wittenberg 大学付属の公法に関す るStiftung によって使用されている。
   大学の建物の隣には Philipp Melanchton の家があるが、この建物は1536年に建てられ、完成と同時にギリシャ語の教授であったMelanchton に贈与されたものである。Melanchton はこの家に死ぬまで住み続け、建物はもとより、内部の家具などもほぼ当時のままに残されており、現在は博物館として公開されている。庭もほぼ当時のままで、ここには近くの森から引いてきた水道を利用した泉がある。なお、この水道は木の幹をくり抜いた木管をつないだもので、源泉は4カ所あり、現在でも Innenstadt の35カ所で噴水や泉として使われている。
   Collegienstraße のはずれに近いところには、Lutherhalle と名づけられた建物がある。ここはもともとアウグスティノ修道会の修道士の住居であり、当初 Luther は他の修道士と共にこの建物の小さな部屋の1つに住んでいたが、修道院の閉鎖後は仲間たちと共にこの建物を独占し、最終的には選帝公から Melanchton の場合と同様に贈与され、妻と6人の子供たち、それに加えて両親をペストで亡くした孤児たち(多い時には20人)と共に暮らしていたそうである。1883年以降、この建物は宗教改革史の博物館として重要な役割を演じてきており、2000年から2年かけて大々的な修復工事がなされ、2003年の3月に新装オープンした(筆者は古い建物しか見ていない)。Luther と宗教改革関係の膨大な書籍や絵画、あるいはコインなどが集められており、もちろん公開されている(特記すべきことはLutherの蔵書がほぼ完全に保存されていることである)。なお Lutherhalle の先には、1520年に Luther が教皇の破門脅迫教勅などを焼却した場所を示す、通称〈Lutherの樫の木〉と呼ばれる樹木が立っているが、最初の木は解放戦争の際に切り倒され、現在のものは1830年に新たに植えられたものだそうである。