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   そもそも Prenzlauer Berg には、Berg すなわち〈山〉は存在しないし、あるとすれば、地区の西のはずれに Volkspark am Weinberg という公園があり、かつてここに18世紀まで葡萄山があったと言われているが、これもどの程度のものだったか不明であるし、またこの〈山〉には、大戦中に爆撃によって破壊された Berlin の町の瓦礫が集められていたために、この地域最高の海抜 91m の小山ができているが、これはあくまで戦後のことで、地名とはおよそ関係がない。さらに、この辺りがかつてまだ農村地帯だった頃に、風車が沢山存在していたために、昔から Berlin 人は単に〈山〉と呼んでいたとも言われており、こちらの方がはるかに信憑性がある。
   一方、Prenzlau という地名であるが、後にあらためて触れる Prenzlauer Allee という大通りを Alexanderplatz の方に行ったところの十字路から、Torstraße という道路がほぼ西に向かって Friedrichstraße に突き当たっており、そこに Oranienburger Tor という U-Bahn の駅がある。さらによく見ると(最初の地図を参照)、この Torstraße 沿いにはかつての城門(Tor)がいくつも並んでおり、ちょうど Prenzlauer Allee と Torstraße が交差しているところが Prenzlauer Tor、西に向かって Schönhauser Tor、Rosenthaler Tor、Hamburger Tor、そして Oranienburger Tor と続いている。現在 Tor という名が少なくとも停留所名などとしてついているのは Schönhauser Tor と Oranienburger Tor のみで(もっとも、Torstraße ではなくなっているが、少し先に Platz von dem Neuen Tor という地名がある)、あとは〈…広場〉あるいは〈…通り〉として残っているだけであるが、いずれにせよ、それぞれの城門はかつてその地名に至る街道の出発点であった。ちなみに、Prenzlau は Berlin から約100km北北西に行ったところにある町である。
   さて、冒頭の写真はあまり適切な写真ではないが、この地区を東の方向から見たものである。そもそもこの地区には〈中心部〉と言えるようなものがなく、どこから切り込んでもとらえどころがないが、とりあえずこの写真に写っているめぼしい建造物を挙げるとすれば、一番右の上に見える尖塔が後に触れる Gethsemanekirche、左に見える丸屋根の建物がプラネタリウム、その先に照明灯が並んでいるところが Sportplatz である。一応この地区の中心になる Kollwitzplatz はプラネタリウムの左の、残念ながら写真には写っていない部分に位置している。なお、この地区は5階建ての集合住宅が多く、それだけ人口が密集しており、これはこの写真からも明らかであろう。
   この地区は1866年に Berlin の城壁が取り除かれたあとに発展したところで、それ以前には現在の Schönhauser Allee に沿って何軒かの家が立っているのみで、その周囲に30もの風車や、せいぜいビールの醸造所などが存在したに過ぎない寒村であった。しかし、1870/71年の普仏戦争での勝利以降、Berlin の町が急速に発展するにしたがって、労働者が居住する平板で緑の乏しい、いわゆる Mietskaserne(安い貸しアパート)が大量に建てられ、たちまち人口密集地帯になっていった。
   ただ、第二次世界大戦中に受けた損害は非常に少なく、わずかに 7% ほどと言われており、そのためにかなり古い建物が残っている地区ではあるが、他方でそれが短所と長所の混在を生じさせている。つまり、古い建物がそのまま残っていたために、そこに有名な西の Kreuzberg におけるよりも早い時期に、すなわちすでに DDR の時代から、いわゆる Hausbesitzer が集中し、彼らが自分たちが占拠した住居を又貸しするといった事態まで生じていたのである。一方、古い建物が残っているために、統一後の復旧も比較的早く進み、これは訪れてみればすぐに分かるが、きれいに修復された建物と、戦前からほとんど手つかずの建物が混在することになり、修復された建物の家賃や価格は高くなるため、こちらは需要が減って空き家が多くなり、手つかずの方はスラム街のようになってしまっている。もっとも、そうした事情のゆえに、全体としてみた場合に、古い Berlin の町並みや雰囲気が十分残っていることになり、それを求めて多くの観光客が集まることになったし、また、何と言っても家賃が安いので、金のない若者が多く住みついている。上で触れた Kollwitzplatz に近づいてみると驚かされるが、この公園には小さい子供と母親が群れており、はなはだ騒がしい。要するに、既婚未婚の若い女性が多いために、子供の数が多くなっているのである。
   いずれにせよ、こうしたさまざまな要素が重なって、今や Prenzlauer Berg は、徐々に隣の Friedrichshain に移りかけてはいるものの、旧東 Berlin の中心の一つになっている。もちろん、西 Berlin の瀟洒な住宅街や文化的・社会的にできあがった、豊かで落ち着いた町並みに比べれば、未完成で、必ずしも美しいとは言えないが、少なくとも若者、特に新入りの Berlin 人や観光客を大いに引きつけていることは確かである。
   さて、町並みの紹介に移るが、話を簡単にするために、すでに触れた、この地区の南に位置する Prenzlauer Tor から始めよう。これもすでに触れたたように、ここから Prenzlau に至る Prenzlauer Allee が、最初の写真で言えば、ちょうどプラネタリウムの向こう側を水平に走っており、一応中心となるのは、この通りの向こう側であると言えよう。
   この通りをしばらく行って Knaackstraße を左折すると、左側に小さな公園があり、その前を右折すると1903/04年に建設された赤煉瓦のユダヤ教会(Synagoge)が立っている。この教会は大戦後、Berlin の町の他の Synagoge が破壊されたために、ユダヤ人の生活の中心地になっていたが、後にOranienburger Straße の Neue Synagoge が修復されてからは、そちらに移っていった。ちなみにこの Synagoge がある通りは Rykestraße というが、この通りは80年代にすべての建物の取り壊しの計画が持ち上がり、住民の抵抗で中止されたと言われている。したがって、ここには Jugendstil などの美しい建物が残っている。
   この通りの一つ向こう側が Kollwitzstraße であり、ちょうど Synagoge の向かい側に当たるところに、すでに何度か触れている、ほぼ逆三角形の形をした Kollwitzplatz がある。Plenzlauer Berg は戦災であまり破壊されなかったこともあって、東 Berlin としてはかなり緑の多い地域であるが、特にこの辺りは街路樹も豊かで、しかも隣にかなり大きなユダヤ人墓地もあるので、緑にはかなり恵まれている。全体的に決して美しいとは言えないが、カフェやレストランや酒場が沢山あり、市民の憩いの場になっているようである。また、そもそもここの酒場やカフェ、あるいは市民の家は、伝統的に政治的なたまり場のような役割を演じてきており、その時代毎にそうした意味でも賑わっていたそうである。
   Kollwitzplatz は版画家であり、彫刻家であったケーテ・コルヴィッツ(Käthe Schmidt Kollwitz 1867-1945)の名を取った広場で、彼女は夫のカール・コルヴィッツと共に、戦争中に破壊された Kollwitzstraße と Knaackstraße の角の家に50年間住み、さまざまな芸術活動において指導的な役割を演じると共に、社会主義や平和主義の運動に関わりつつ、周囲の貧困や苦しみを描いた女性である。1937年に制作されたその彫刻 Pietà は、その拡大されたレプリカが Unter den Linden のページで触れた Neue Wache の中に安置されており、また現在、西 Berlin の Zoo 駅の近くにある Fasanenstraße に、その作品を集めた Käthe-Kollwitz-Museum がある。なお、この Kollwitzplatz では、毎週木曜と土曜のの朝に青空市が開かれ、特に木曜日には、有機栽培のもののみが販売されている。
   Kollwitzplatz から北に Danziger Straße まで延びている Kollwitzstraße と Knaackstraße の間を通っている Husemannstraße にも、カフェーやレストランがいくつもあるし、またここにはいわゆる Gründerzeit の建物が、修復されたり、あるいはほとんど崩壊寸前の形で残っており、これは見る価値がある。崩壊寸前とはいえ、戦火による破壊を免れているので、ともかく元のままである。さらに Danziger Straße の北側にある、かつて煉瓦工場があった Helmholzplatz も、現在最も注目されている場所である。かつては Hausbesitzer の逃げ場であったし、今では取り壊しが取りざたされているが、この周辺にも若者好みのカフェーやレストランが集中している。
   この広場からさらに北の方に進んで Stargarder Straße に出た後、そこを右折すると再び Prenzlauer Allee に出るが、その十字路の向かい側の左手に、すでに触れたプラネタリウム、正式には Carl-Zeiss-Großplanetarium がある。実はこの建物は、Buchenwald の強制収容所で殺された共産党の指導者の名を取って Ernst-Thälemann-Platz と名づけられている、以前ガス工場があったかなり広い公園の北西の隅に建てられており、ここには他にもいくつかの文化施設が立っている。
   先程右折したところを逆に左折すると、その先にこれもすでに触れた Gethsemanekirche がある。この教会は、建物自体は19世紀末に建てられたものであり、しかもすでに何度か触れたように、Berlin の町が膨張して人口が増えたための窮余の策として建てられたものであったにすぎないが、重要なのは DDR 時代の末期に、この教会が非暴力的な抵抗運動の象徴として機能し、また特に政権の崩壊に当たっては、かなり重要な役割を演じたことである。このことは、この地区の歴史と住民構成が Berlin の中でもかなり特殊であったことが影響しているものと思われる。
   教会から Stargarder Straße を西に行くと、 U-Bahn が高架になっている Schönhauser Allee に出るが、ここは〈北の大通り Bourvard des Nordens〉と呼ばれている、Prenzlauer Berg で最も生き生きとした繁華街であり、また面白いのは、真ん中に高架線が通っているので、この通りには傘屋がないと言われていることである。つまり、雨が降ってもすぐに高架線化に逃げ込めるので、安心して買い物ができるというわけである。上の写真は U-Bahn が地下から高架線に上がってきたところで、すぐ後で触れる Eberwalder Straße の駅から見た光景である。
   Stargarder Straße から Schönhauser Allee に出たところを右に曲がって(北の方に)少し行くと、 S-Bahn の駅 Schönhauser Allee があり、ここには U-Bahn の駅も市電の駅も、もちろんバス停もあり、交通の便は抜群である。また、1999年には Schönhauser Allee Arcaden という巨大なショッピングセンターもでき、100の専門店やレストランなどがある。
   一方、左側に行くと、まもなく右側に〈体操の父 Turnvater〉の名を取った Friedrich-Ludwig-Jahn-Sportpark がある。冒頭の写真ではるか向こうの左側に照明灯が立っているところがこのスポーツ公園である。しかし、重要なのはこの公園の西側にある Mauerpark で、ここは〈Berlin の壁〉があったところを利用して細長い公園にしている。〈壁〉はどこでも二重になっており、二つの壁の間がかなり広い更地になっていたため、公園作りも十分可能であり、例えば Potsdamer Platz でも、壁が存在する間はすべての建築物が取り壊されて、広い空き地になっていた。映画「ベルリンの天使」の中に、ある老人が「ポツダム広場は一体どこにあるんだ」と嘆いていたシーンが出てくるが、逃亡者を見逃さないために、障害物がすべて取り除かれていたのである。この周辺も〈壁〉に接していた地域で、この公園の先にある Bornheimer Straße には、東西の Berlin 市民とドイツ人が徒歩で通行できる検問所が存在していた。あまり知られていないが、1989年の11月9日に東 Berlin 市民が最初に西に入ったのはこの検問所からである。
   さらにそのすぐ先には、他の2本の道路が交わる六叉路になっており、先に触れた U-Bahn の Eberwalder Straße の駅がその手前にある。写真はその交差点を、別名ホモセクシュアルの通りと呼ばれている Kastanienallee の方向に向かってみた光景である。高架線はかなり幅が広いので、歩行者天国のようになっており、すでに述べたように、雨が降ってもぬれずに歩くことができる。ちなみに、左下の高架線の下に平屋根の建物が見えるが、これは Berlin 名物の〈カリーヴルスト Currywurst〉の店 Konnopke's Imbiß で、最も古く、うまいと言われている店(Bude)の一つである。
   カリーヴルストは、ソーセージ(腸ないしはケーシング付きとなしがある)をフライパンで焼いて小さく切ったものに、ケチャップを基本にしたソースとカレー粉をかけ、添えられているブレートヒェンかポンフリ(フライドポテト)と共に食べる軽食であり、ほとんどの場合専用の屋台で売られている。店によってソーセージの種類や焼き方、特にソースに特徴があり、互いに競い合っているが、自然食品が流行している最近では、エコ・カリーヴルストまで出現して、材料の肉はもちろんのこと、ジャガイモも無農薬、有機栽培のものが好まれている。
   一つ前の写真の左側に位置するブロックは、かつて Schultheiss-Brauerei というビール工場があったところで、19世紀末に建てられた建物全体がほぼ完全な形で残っている。それぞれの建物が今後どのような形で使用されるかはまだ決まってはいないが、そのほぼ全体が KulturBrauerei と名づけられ、展示場、コンサートホール、映画館、ディスコなどを含む、一種の文化センターに様変わりしつつある。写真は Sredzkistraße の側の角にある建物で、現在レストランとして使われている。
   Schönhauser Allee はこの先は並木道になっており、左側に木々の生い茂る Jüdischer Friedhof があることもあって、緑が多く見られるが、しかしそのすぐ先は、冒頭で触れた Torstraße である。