5. Dessau (2004.5記、2006.3訂正)    


グリーンで示されている箇所にはそれぞれ写真が添えてあるか、リンクを張ってあります。その部分をクリックすれば、それらが取り出されます。

   1926年以後 Bauhaus 運動の中心地となった Dessau は、他の多くの旧東独の都市と同様に過疎化に悩む中都市の1つで、かつては航空機産業の中心地であったため、その人口は1935年には130,000あった(統一前には約100,000)にもかかわらず、現在では82,000弱にすぎない。ただ、このように Bauhaus 運動の中心地であったことや、航空機産業で栄えていたこともあって、市民の住居その他からこの町のかつての豊かさを垣間見ることができるし、また何よりも、主な建造物の再生が統一直後に開始されたことは、町の経済的な基盤が比較的しっかりしていたことを物語っている。全体的な印象としては、かなり活気に満ちている方で、町の中心に真新しい大ショッピング・センターができて、大いに賑わっている。何よりも注目すべきことは、1996年に Bauhaus の建築物とその理念が、そしてさらに2000年に一部がビーバーの生息地にもなっている Elbe 川とその支流の Mulde 川の湿地帯からなる、周辺の自然環境(Dessau-Wörlitzer Gartenreichと名づけられている)が世界遺産に指定されたため、Dessau が二重の意味で世界遺産に関わっていることである。ちなみに Dessau は1918年まで、Anhalt 侯国(後に公国)の首都であった。
   Dessau は Berlin から南南西に向かって車で約1時間のところにあり、Mulde 川沿いに位置してその北端が Elbe 川に達している。Autobahn を降りて西に少し進むと Mulde 川に架かる橋があり、対岸がすでに Innenstadt である。真っ先に眼に入るのがルネッサンス様式の Johannbau と呼ばれる、かつての Anhalt 候(公)の宮殿で、次のような銘板が残されている。

     ― 主の1341年に高貴なる Anhalt 候 Albert および Woldemar が私を建てた。 ―

   もちろん、かつての宮殿は現在の建物よりもはるかに大きなもので、1945年の爆撃でほとんど廃墟と化し、1990年以降、その西側部分のみが再建されて残されているにすぎない。しかも現在、内部はいまだに修復中で、地下部分のみが市史の博物館として使用されている。建物の西側のほぼ中央部に見える塔は、内部が螺旋階段になっており、面白いのは、窓が螺旋階段の傾斜に合わせて斜めになっていることである。ここからは前方の Mulde 川の湿地帯の端に作られた、広々とした公園を見渡すことができる。
   かつての宮殿の庭園であり、現在では Schloßplatz と名づけられている北側の広場には、噴水と Hof を囲んでいた鉄製の Gitter の一部、そして18世紀末に Johann Gottfried Schadow によって作られた Anhalt 公 Leoport I 世の大理石の立像のブロンズ製のコピーだけが残されている。ちなみに Leoport I 世はプロイセンの軍司令官を務めていた将軍で、この像の大理石の実物は Berlin の Bode-Museum にあるそうだが、現在このMuseumは修復中なので見ることはできない。
   Schloßplatz の北側には、その Leoport I 世の戴冠式が行われ、また遺体が埋葬されている、かつては Schloßkirche であった Marienkirche(正式な名称は Schloß- und Stadtpfarrkirche St. Marien)がある(写真のブロンズ像の背後)。この建物は、焼き煉瓦造りのゴシック建築物としてはドイツの最南端にあるものとされているが、Johannbau と同様に、1945年に爆撃で完全に破壊され、同じように1990年以降に再建されている。現在では教会ではなく、コンサートホールおよび各種の催しのためのホールとして使われており、催しがない時には中に入ることができない。内部は Anhalt の諸侯の墓以外はすべて失われているらしいが、興味があるのは、かつて Cranach 親子の絵画が3点この中にあったことで、ただ、今ではこれらは近くの別の教会に納められている(この教会も閉まっていて見ることはできなかった)。
   Marienkirche の北側には Rathaus があり、73m の塔が聳え立っているが、この塔は少々面白い形をしている。上部の四隅にちょうど巨大ロケットの補助エンジンのような小さな塔が4本付けられ、また塔の先端には Marienkirche のそれとほぼ同じ、明かり取りの塔(Laterne)が載せられており、この部分だけは両者がシンメトリックな関係になっている。この Rathaus も前2者と同じように1945年の爆撃で破壊されたが、Fassade に関しては80年代の末に再建工事が開始されている。建物本体の上部は完全に焼け落ちたようで、古い写真と比較すると、屋根にあったはずの2つの小さな塔は今はなく、また屋根や上部の外壁もかなり違ったものになっている。
   さらに Rathaus の北側に Zerbster Straße という、現在では Fußgängerzone になっている〈道路〉があるが、この〈道路〉は底辺の幅が狭い三角形をなしており(底辺に接しているのが Rathaus)、ほとんど Rathaus 前の広場といった感じで、おそらくここに Markt が立ったりするのであろう。また、この〈広場〉にはいくつかのPalais(その1つの Palais Dietrich は現在では図書館)、Sachsen-Anhalt 州の Landesbücherei、Stadtarchiv、1777年から93年まで存在した Johann Bernhard Bassedow の Philanthropinum の建物などがある。
   Zerbster Straße の北端を右に曲がって Kurt-Weill-Straße を行くと、その先にいくつかの道路が放射状に発している Lidiceplatz という丸い広場があるが、ここには Brecht と Kurt Weill のブロンズ像が向かい合う形で立てられており、さらにまたこの地区には、Gründerzeit-Viertel と名づけられているように、Gründerzeit の建物がかなりあり、これらも統一後ほぼ元の形に再建されている。ちなみに Kurt Weill は少年時代をこの町のユダヤ人地区で過ごしており、後述する Bauhaus の指導者たちが住んでいた家の1つが、現在 Kurt-Weil-Zentrum になっている(文字が見えにくいが、上の写真はその看板)。またユダヤ人地区といえば、そこにはかつて哲学者の Moses Mendelssohn の生家もあったとされ、その跡地に建てられた建物の壁に、そのことを記した白い大理石の板がはめ込まれている。
   Dessau にはこれら以外にも、例えば後期ゴシック様式風の立派な中央郵便局、ナチ時代に建てられた巨大な劇場、あるいは注目すべき教会などがあるが、何と言っても見逃せないのが、Bauhaus の指導者たちによって建てられた建物群である。
   もちろんその中心となっているのは、1925年に Bauhaus が Dessau 市の全面的な支援のもとに Weimar から移ってきてすぐに建てられた、いわゆる Bauhausgebäude である。この建物は、Bauhaus が1933年にナチによって閉鎖された後は NSDAP の職場管理者学校や航空機メーカー Junkerwerke の事務所などとして使われ、大戦末に部分的に破壊されたが、76年にはもとのままの形に修復され、その後すぐに Bauhaus の遺産の蒐集と保存を目的とする〈学術・文化センター Wissenschaftlich-Kulturelles Zentrum des Bauhauses Dessau〉の本部となった。このセンターは1994年に新たに Stiftung Bauhaus Dessau として生まれ変わり、現在この建物の中には、この Stiftung を中心に世界中の芸術家に門戸を開いている Bauhaus-Kolleg や工房、種々の学校が併設されている。目下全面的に修復中だが、建物自体がMuseumになっており、職員が働いている部屋など以外は、内部のほとんどが見学可能である。
   Bauhaus の指導者たち、特に Gropius は、移転直後にまず自分たちが居住するアトリエを兼ねた住宅を建てている(Häuser für Bauhausmeister)。当初これらは市の所有で、賃貸という形をとられていたが、33年以後は私有化されたために、一部が改造されたり、あるいは戦災で焼失ないしは損害を受け、現在ではそのいくつかが修復されて、さまざまな用途に使われている(全7棟のうち4棟はすでに存在しない)。上述の Kurt-Weill-Zentrum もその1つである。なお、これらは一般公開されているが、筆者が寄った時には、残念ながら中を見ることができなかった。これ以外に、一時期 Bauhaus の教師をしていた Fieger によって Elbe 川の岸辺に建てられた Kornhaus(穀物の貯蔵所があったところに建てられたレストランで、Korn という名称はそこから来ている)や Fieger 自身の自宅、かつての Arbeitsamt(現在は市の交通局が使用)などの公共建築物があるが、注目すべきは、一般市民のための賃貸住宅として建てられた2つの団地である。
   最初に建てられたのは南の Torten 地区にある Siedlung であるが、これらは4から12の"Haus"を結合した〈長屋 Reihenhaus〉であり、合計316戸が建設されて、それぞれは大きさによって4つのタイプに分けられている。
 1930年には、この Siedlung の南側に、さらに別の住宅群が建てられることになる(Laubenganghäuser と呼ばれているが、Laubengang は Außengang とも言い、ちょうど日本の集合住宅に見られるように、階段で各階に昇り、外側の公共の廊下を通って各戸に行ける形の集合住宅)。3から4階建ての10棟を建てる計画が結局5棟で終わってしまったが、全部で90戸が建てられ、低所得者用だったため、各戸の面積は上記の Siedlung よりかなり狭い。
   上で触れたもう1つの世界遺産 Dessau-Wörlitzer Gartenreich は今回は訪れることができなかったが、これは今後の楽しみにしたい。