3. Naumburg/Bad Kösen (2003.5記/2006.6以降部分的に加筆)     


グリーンで示されている箇所にはそれぞれ写真が添えてあるか、リンクを張ってあります。その部分をクリックすれば、それらが取り出されます。ほとんどの場合、新たに現れたページは元のページからは独立していますので、見終わったら消去するか、最小化してください。
   上の で触れたように、Autobahn の9号線を降りてから15キロほど走ると、Naumburg の旧市街を取り巻いている Ringstraße に出る。まず先に Marktplatz に行くのが最良の方法だが、この旧市街は直径が 500m ほどなので、駐車はどこにしてもそれほど煩わしさはないであろう。
   しかし Naumburg の町について語る前に、この町に住んでいたニーチェ関係の2つの場所についてまず触れておきたい。
   第1はニーチェの生まれた Röcken である。Röcken は、Leipzig から車で国道87号線を南西に向けて20数キロ行ったところ(Leipzig と Naumburg のちょうど中間の辺り)にある小村で、ニーチェはこの村の教会の牧師をしていた父親の息子として、1844年の10月15日に生まれている。この教会は今でも残っているが、きわめて小さな教会で、しかも50年間の DDR の時代が続く中で、特に手を入れられることもなく、私が訪れた7,8年前にはかなりひどい状態に置かれていた。但しその頃にはようやく人々の注目が集まり始めており、牧師館の脇に仮設の Museum が建てられ、わずかながらの陳列品が展示してあった。なお、ニーチェの墓もこの教会の脇にそのままの形で残されている。[現在では整備がかなり進んでいるようである。上の Röcken のホームページを参照]なおニーチェは、1850年に父親が亡くなったため、Naumburg の祖母の家に引き移ることになる。
   第2はニーチェが学んだ Schulpforta であるが、この学校は、Naumburg からBad Kösen の方向に Saale 川に沿ってしばらく行ったところにある。この場所には、もともと1137年に創設されたシトー会の修道院(上のHPの中の Geschichte → Kloster を参照)があったが、宗教改革の後の1540年にザクセン公 Heinrich の手で閉鎖され、43年に Grimma および Meißen の姉妹校と共に、当時のラテン語学校と大学の中間に位置する Landesschule として生まれ変わる。ラテン語学校を終えた12歳から15歳の少年が、当時の人文主義の教育理念に基づいて、ここで6年間の寄宿舎生活を行い、しかも基本的には、すべての階層の子弟に(もちろん成績優秀な場合に限って)入学が許されたという。要するに、ザクセン公国がこれによって人材の養成を目指したわけである。17世紀には、30年戦争や伝染病の流行などで何度も危機に陥ったが、その厳格な教育方針によって、当時すでにきわめて高い名声を得ていたという。卒業生も錚々たるもので、ちなみにその名前を幾人か挙げると、哲学者の Fichte (1775-80)、Klopstock (1739-45)、歴史家の Lamprecht (1869-74)と Ranke (1809-14)、ニーチェの宿敵だった古典文献学者の Wilamowitz-Möllendorf (1865-67)らがいる。
   ナポレオンの側についたために、敗北したザクセンはプロイセン領となり、1815年には、当然のことながら Schulpforta もプロイセンのものとなったが、この辺の事情がニーチェの入学と大いに関係があるように思われる。
   現在の Schulpforta は、もはや古典語ギュムナジウムなどではなく、理科系の科目はもちろんのこと、音楽も教えられており、しかも男子校でもない。但し、よく手入れされた建物群はかつての面影をほぼ100%残しており、堂々たる佇まいを見せている。ちょうど私が訪れたとき、事務の女性が周辺の町の CDU の市議会議員のグループに対して建物の案内を始めたところで、強引に頼み込んで加わらせてもらったが(現役の学校であるから当然だが、通常は中には入ることができない)、19世紀末に建て直された立派な校舎やゴシックの教会堂、ロマネスクのカペレ、修道院時代の Kreuzgang や果樹園など、さまざまなものが整然とした形で保存されていた。
   ところでどういうわけか、学校の正門の横にワインの販売所があり、かなり良質と思えるワインの瓶が並べられている。もちろん、この辺りは旧 DDR の2つのブドウの Anbaugebiet (後述)の1つなので、ワインを売る店があって決しておかしくないのだが、よりによって Schulpforta の正門の横にこのようなものがあるのは、解せない話である。ただ、生半可であるとはいえ、一応ドイツ・ワインのことは知っているつもりの筆者としては、そのまま立ち去るわけにもゆかず、いろいろ詮索しているうちに、店員が醸造所を教えるから行ってみろと言うので、Bad Kösen にあるその醸造所に行くことにした。東ドイツ地区のワインは、DDR の時代には生産量も少なく、ほとんど専ら党の幹部用に作られていたと言ってよいほどだったらしいが、統一後は西の最高級の技術と設備を導入して、かなり高級なワインを製造しており、値段も生半可なものではない。西の銀行がかなり積極的に融資を行っていると聞いているし、例えば Naumburg の北にある Freyburg という小さな町では、かつての醸造所の所有者の娘で、アメリカに行って生活していた女性が夫と共に舞い戻って、醸造こそしてはいないものの、そこにかなり高級なレストランを経営して繁盛したりしている。

   さて、ここで Naumburg に戻ろう。Naumburg は、Unstrut 川が Saale 川に合流する地点のすぐ南にあり、この 2 つの川の名前をとって、ここのワイン生産地域(Anbaugebiet)の名称は Saale-Unstrut と称されている。Naumburg は広さ45平方キロで人口3万人の小さな町であるが、ニーチェが子供の頃住んでいた(右の写真。現在、この建物は Nietzsche in Naumburg というニーチェ関係の資料の常設展示館になっている。ちなみにニーチェは Schulpforta に入学する際に、この都会(!)から何もない片田舎にある学校に入れられるというので、泣く泣く家を出たそうである)という以外に、かの有名な Naumburger Dom のある町である。実は5、6前に、別に述べる Erfurt を訪れた帰途に立ち寄ってひどく気に入り、しかもこぎれいなレストラン兼ホテルがあったので、どうしてもそこにいつか泊まってみようと考えていたのである。Zeitz の司教座が置かれ、かつてのハンザ都市でもあったこの町は、それ自体としては特にどうということはないが、何と言っても必見に値いするのがこの Dom と、いわゆる Naumburger Meister の作品群である。
   Naumburg の Dom (正式には Naumburger Dom St. Peter und Paul) は Marktplatz から西側の 500m ほど離れたところに立っているが、この Dom は少々変わった構造をしており、まず注目すべき点は、正面入口が多くの場合のように西側でもなければ、Seitenschiff でもなく、Querschiff の南側に新しい Vorhalle を付け加えて、そこから入るようにしてあること(見取り図参照)、またこのことと関連していると思われるが、その裏側に、修道院が併設されていたわけでもないのに、回廊(Kreuzgang)が存在すること、そして特に、Chor が東と西に2つある上、その2つともが聖障(Lettner)という間仕切りで Langhaus からほとんど分離されているように見えることである(右の写真参照)。一見すると、ほとんど孤立した3つの空間で構成されているようにも見えるが、これはもう一つ、Seitenschiff の上のステンドグラスがかなり暗い色彩で彩られており、逆に2つの Chor のステンドグラスが明るいため、3者が違った空間のように見えるのである。
   2つの聖障は見事なレリーフで飾られているが、特に素晴らしいのは、初期ゴシック様式の西側の聖障である。西側の Chor と聖障はどうやら同一人物の手によるものらしいが、但しその名前も出身地もわかっていない。この Chor と聖障に、フランスで修行し、Straßburg、Reims、Mainz などで数々の作品を残した後に Naumburg にやって来た、いわゆるNaumburger Meister が、これまた素晴らしい彫像とレリーフを飾り付けたのである。レリーフについていくつか気づいた点を挙げておくと、まず聖障の内側の上部にはキリストの最後の日の一連の出来事が描写されており、特にその中で左端にある最後の晩餐のレリーフに関して面白いのは、12弟子ではなく、ユダを含めた5人のみを登場させていること、しかもユダが1人だけ、イエスと4人の弟子のテーブルを隔てた反対側に、見る者に背を向けて座っていることである。ユダがこうした形で描かれているのは、最後の晩餐の描写の多くのものに見られると、どこかで読んだことがあるが、これはユダを特別扱いするためであるとされている。
   一方、西側の Chor の半円形の柱には、この写真ではあまりはっきりしないが、合計12体の木彫りの立像で飾られている。それぞれの像はほぼ等身大で、表現もきわめてリアルである。特に目立つのは、Naumburg の創設者とされている辺境伯 Ekkehard I の二人の息子 Hermann と Ekkehard II の二人が、それぞれの妻と共にそれぞれ1対の立像として飾られている点である。後の8人については説明書を読んでも関係がよくわからないが、おそらくいずれも Dom のパトロンだったのであろう。5枚あるここのステンドグラスも非常に美しい。
   一方、東側の聖障は Langhaus との分離の度合いがさらに大きく、しかもかなりの段差があって、Chor には聖障の両側の階段から上る構造になっている(右の写真参照)。段差があるのは、通常は聖堂の Chor の地下にあるはずの Krypta (地下聖堂)が上に上がりすぎているためだが、これはおそらく何度目かの改築の際にそうなってしまったのであろう。いずれにせよ、もちろんこちらが正式な Chor であり、ここには立派な祭壇も備わっている。また興味深いのは、建築史的に何らかの根拠があるのであろうが、Chor の部分が Vierung、つまり Langschiff と Querschiff が交差している空間にまで張り出していることである(先の見取り図参照)。この見取り図では、左が西、右が東であり、通常は Chor がこのように Vierung を占拠していることはない。ちなみに、東側の聖障は中央右よりの縦の構築物であり、ここからはその右側に階段が2つあることは分かる。

   Dom はこのくらいにして、Marktplatz に戻ろう。ここでまず眼につくのは、どこの町でも同じだが、当然 Rathaus である。Dom についても同じだが、この町も何度かの火災で建物が焼け落ち、Marktplatz も1517年の火災で、それまでの建物が焼け落ち、ルネサンスないしバロック様式に統一された建物が並ぶことになる。Rathaus はその後内部、外部とも何度も改造が行われ、特に現在でも残っているルネサンス様式の Hauptportal(正面玄関。右の写真)が17世紀はじめの改築工事で付け加えられている。Naumburg は中世以来の2つの交易路の交差点に位置していたため、司教座があったと同時に、基本的には商業都市であり、したがってこの Marktplatz の建物も市民が使用していたものがほとんどである。これらの家には、Luther が Worms の帝国議会に赴く際にこの広場の家の1つに泊まったとか、皇帝 Karl V が他の家に泊まったとか、さまざまな来訪者の宿泊ないしは滞在記録が残っている。
   Rathaus 以外のめぼしい建物としては、例えば現在町の博物館になっているドイツ最古の民家の1つ Hohe Lilie がある。また、広場に直接接してはいないが、南側に市教区の教会 St. Wenzel が立っており、ここには Lucas Cranach d. Ä. の工房で描かれた2枚の絵、1680年のバロック様式の祭壇、そして特に興味をそそられるのは、30年戦争中に戦死したスウェ−デン王 Gustav Adorf の近習の墓があることである。ちなみにこの近習は、1632年に王と共に Leipzig の南西にある Lützen の戦闘で戦死したとされているが、なぜこの教会に墓があるのかについては不明である。また、忘れてはならないのは、この教会には Zacharias Hildbrandt が Bach の理想としたオルガンを目指して作った(Bach は落成式に立ち会っている)、いわゆる Hildebrandt-Orgel が存在することである。
   旧市街にはまだいくつか見るべきものがあるが、最後に1つだけ、唯一残されているかつての城門 Marientor を挙げておこう。この城門は15世紀に建造されたものであるが、少々特異なところは、塔が2本あり、一方は文字通りの城門だが、もう一方はそれよりもかなり高く、見張りの塔になっているところである。城門そのものは、最初のものが13世紀に作られ、15世紀には大々的に補強されている。今でも城門の一部がそこここに残っており、すでに述べた Ringstraße はその跡に作られた道路である。